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2008.04.28

ネコと悪と鈴木とポエム

壁に目がいきがちな私としては、落書きにはいちいち目くじらをたててたけど、近頃ほんの少しだけ心のゆとりが出てきたようです、壁中級者になりました。

この寛容な気持ちで撮った落書きを4枚ほど。

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表参道裏通りのネコ

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グラフィティー仲間のように手の届かない範囲なんてスプレーしたりしない、実利的な赤志旧車會

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練習つきの鈴木のバカ

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これは落書きじゃなかった



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2008.04.20

秋月の時計キット

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あいかわらず、電子部品は一つ一つが素晴らしくかわいらしい。
しげしげと眺めて、こまかくブツ撮りをしてから、作りました。

これは秋葉原の秋月電子通商の時計キットに入っているものたちで、ちゃんと所定の位置にハンダ付けさえすればできるはず、
だったのに、点灯しなかった。

↓見た目だけ完成間近

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原因はいっぱい考えられる(テストをしなかった、適当だった、説明書をちゃんと読まなかった、実は部品が足りない気がした、逆に付けてるかも、ハンダごてのW数が高かった、等)ので、なんとなく点灯しない気はしてたけどさ、ちぇっ。
まぁいいです、課題は次に。とりあえず愛でることにします。

ということで、7セグメント表示器の裏側が透き通って美しいこと極まりない姿を披露(ピンのおさまり具合もいい!)

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2008.04.15

鹿島港の船カベ

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船カベはまた特別の魅力。
海ならではの侵食され具合がたまらない。
この青い船の傷の多さっぷりには、異国からやってきた荒くれ者感が漂っていてまたよいです。

 

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あと、船にまつわる記号やフォントもたまらない。

 

 

 

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2008.04.12

頭の中は桃色

2年前の4月、祖父が86歳で亡くなった。
今でも祖父のことはよく思い出す。
当時近くに住んでいたこともあって、祖母と姉と私とで祖父の認知症の介護をしていた。
その日々のなかには、きれいごとでは済まされない日常がでーんと横たわっていた。
けど、今の自分にとって大きな存在であり、考えの根幹にあるのは、あの頃の時が止まったような日常だと思う。
そんなことをなぜ今思い出すのかというと、ちょうど読んでいた田口ランディの「寄る辺なき時代の希望」のなかに、

「認知症の人達は、人間という着ぐるみを脱ぎ捨てて、命そのものになって輝いていた。」

という一節があり、私はそれを実体験としてまざまざと見せつけられてしまったからなのだな、とすごく腑に落ちたからです。

祖父は毎日「こんなことは初めてじゃ。」とつぶやきながら、何に対しても新鮮に驚いていた。
着実に死へ向かい、あらゆることを忘れながらも、祖父が私の手を握る力はすごく強く、毎日たくさん食べ、意固地を張り、ほんとうに「命そのものになって輝いていた」と思う。

私は、祖父のかたちが、2時間くらいは平気で微動だにしなかったりする姿が、生き仏のように愛らしくて、いつもじっと肌を見ていた。
年を重ねた人の皮膚は本当に美しいのです。
今でもありありと浮かぶ、おじいちゃんのほっぺたのシミ、皺、色つや、毛細血管までも。

そしてその頃は、祖父の頭の中にはどういう世界が広がっているのか、ということが気になっていて、勝手にお花畑が広がっているだろう希望的観測を膨らませていた。
なのでよく、祖父に
「ねぇ今のおじいちゃんの頭の中は何色?」と質問していた。
認知症を患った人は、記憶力の低下から具体的な質問に答えられない事をストレスに感じていて、その分普遍的な質問には飛びついて答えてくれることを利用した、すごく自分勝手な質問だったと思う。
ただそれは面白いくらい祖父の心理状況を表していて、「桃色じゃ」と答えてくれた時は勝手に非常に満足した。

しかもそれが現実になったのだ。(ここからの話は少しばかばかしいので読み流してください)
埋葬した後、お棺から出てきた骨は頭蓋骨の辺りがほんのり桃色で、お腹の辺りがほんのり抹茶色だった。
埋葬場の人は「こんなことはあんまりないのですが、献花の色でしょうかね?」と言っていたから、事実その通りなんだろうけど、私にはおじいちゃんの頭が言葉通りに桃色だった!ということに、また泣けてしょうがなくて、でもなんだか嬉しくて、複雑な思いをしまくりました。

書かずにはいられなく思いつくまま長駄文すみません

追悼、おじいちゃん

 

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2008.04.06

飛び出せ!三田線

旧岩淵水門で心温まったあと、西へ向かい、そのまま志村坂上駅から蓮根駅まで都営三田線を辿って歩いた。

地下鉄の標高差グラフをせっせと作っていた頃、三田線の志村あたりの地形差から電車がぽーんと飛び出てる様はとても特徴的で、これは見てみなくちゃと思ってたことと、

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志村坂上駅から西台駅まではどうしてつづら折りカーブなの?との質問を頂いていたので。
半年経って、ようやく調べに行く事ができた。

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志村坂上駅から北に向かうと、もうすぐにスリバチビュー。
地上に出る場所のトンネル真上は駐車場になっていた。(写真左)
右の写真は、フェンス上から覗き込んでみたところ。

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ほんの100mくらいの間で地下からいきなり高架になるところは、地形差利用で、がんばって地上に出たぞという感がないのがすごい。(丸ノ内線四ッ谷駅のがんばり感とは好対比)
当たり前に地上な感じが、新鮮でした。

しつこく拡大図を↓

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そしてそこから始まる三田線の高架下は、コンテナ倉庫、駐車場、土木とちぐはぐなプレハブ建築、いかにもの高架下風景が延々と続く。

歩いている時に推測してたのは、志村三丁目駅を越えたところで右に曲がる時、もう左手にはすぐに高台がせまってきていて、だからそれを避けるために曲がったのかな、とか考えて、すっかりいい気になっていたのだけど、帰ってきてから調べた結果は、

がんばれ高島平「三田線のカーブ・長後町の悲劇5」

地形にロマンを求めすぎました、大人の事情ですっかり的はずれです。
それによく考えてみれば、高島平(徳丸ヶ原ニュータウン)へ電車を走らせることが主目的でした、そうでした。

でも1980年代の半蔵門線九段下の一坪反対運動を思うと、まだのんびりしていた時代なのかと。
あと、当初の計画は高島平までぜんぶ地下を掘るつもりだったけど、高架にしたのは徳丸が原の湿地帯を掘ることが容易じゃなかったからだと、wikiに書いてありました。

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2008.04.05

ガンブッチくんとの個人的対峙

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佐藤さんの「恋する水門」を手に取ったあの日から、表紙の旧岩淵水門にときめいていた。
あの独特な色(すぐ近くにある新岩淵水門=青水門と比較して、赤水門と呼ばれてるけど、ちがう、あの色は赤にもオレンジにも分類できない素晴らしい色だ)があんなに大きい平面で存在することが衝撃的で、ずっと行きたいと思って半年、ようやく個人的対峙を果たしてきました。

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あぁ素敵、小屋も素敵、門壁の剥がれ具合も巨大数字もまた素敵。
桜もたくさん咲いているそれはもう風光明媚な場所なのだけど、これ以上ピンクを混ぜてあげる心の余裕もなく、ただひたすら水門にうっとりしていた。

それから、荒川知水資料館へ。
これは隅田川、荒川、江戸川の水位と土地の標高が一目で分かる断面模型。

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他にも何かと興味深い展示が満載だったけど、佐藤さんに教えて頂いていて楽しみにしていたガンブッチくんの姿がどこにも見当たらない。
受付のお姉さんに聞いてみたところ、ガンブッチくんは河川事務所の管轄だったらしく、資料館ではキャラとして扱っていないとのこと。
諦めきれずに、見た目はどんなですか?とか聞いていたら、クイズに満点だったら景品として差し上げているんですが、と↓消しゴムを見せてくれた。

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22世紀の未来少年で名前は「岩淵元気」→変身してガンブッチくんになる
耳のところが赤水門(でも形は青水門)になってる 

等、ガンブッチくん情報をお姉さんは笑顔で話してくれた。
そしてその後、消しゴム欲しさにクイズに真剣に挑戦した挙げ句2問も間違えた私にも、こっそり消しゴムをくれた。
小学生よりずっとたちがわるくてごめんなさい。大切にします。



 

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2008.04.02

一番住みたいのはピンク

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だって、デフォルトブザー


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2008.04.01

壁の春

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